岩木山の神さまと為信公(5)

続いている記事です


前回は、、、、

弘前藩 初代藩主 津軽為信は
岩木山と十和田湖が岩木山の神さま関連と判っていて
更にその陰陽関係と三神の原理を使い
弘前城を作ったのでは
という事は、
そんな風な作りの中心になる本丸はパワースポット
と言って過言ではない


という具合でしたけども
なんといいますかもう、
弘前公園に来たら
入場料を支払ってでも本丸に昇れば
よりお得かもしれない

という事になりましたね←本丸入場料はなるべく払わずに弘前公園を紹介してた(笑)

ですが
厳密に言えば “次のエネルギーの発生” ですので
次へ進む準備が出来ている人に
その人にとって次といえる状態になりやすい
場合によっては、人によって、見方によって
その “次” が一見 “良い” といえるものではないのかもですけども
『津軽観桜会ツアーズ2017 〜弘前公園クエスト』の記事でも書きましたが
自ら行動する人にのみ感動出来る事は起る
という事も伝える弘前公園ですので
次へ進む準備の出来ている人は例え何があってもその先へ進めるのでしょう

いやしかし、
まさか為信がこんな仕掛けを仕込んでいたなんて
まぁ厳密に言えば、、、、

1603年 → 徳川幕府成立
為信は外様大名として津軽を本領安堵され
沼田面松斎に命じ現弘前公園の地に高岡城の建設を決める
1607年 → 京都で為信死去(この時既に長男 信建死去)
1609年 → 信建の子を二代目に擁立する内紛が起こるも
信枚は幕府の政治顧問的存在 天海大僧正の弟子でもあったからか
為信が三男 信枚の家督相続が決定
幕府より築城の許可が下りる
1610年 → 信枚が築城に着手
1611年 → 一応高岡城が完成
ちなみにこの年に信枚は家康の養女 満天姫を正室に迎えている

※この満天姫の半生も劇的な運命を辿られていて物語映えするのですけども
気になった方は各自お調べ下さい←(笑)

となりますので、
作ったのは二代目の信枚なのですけども
青写真を描いたのは為信&沼田面松斎でしょうね
今更ですが、
実は当ブログオーナー
あんまーり為信をよく思ってなかったのですね
といいますのも、
津軽を平定する過程の戦い方がですねぇ

賭博場でスカウトした俗にいうならず者に
敵方の婦女子を襲わせ乱暴の限りを尽くさせて
婦女子が気になり戦いに専念出来ない敵方の城をアッサリ落とす

という記録があったり

母が安倍氏の末裔なのに
安東氏関連の遺されたものの破壊活動を徹底的に行なう

という記録やお話があったりで
一体全体ヤツはどーなっているのか←(笑)
とか思っていたのですけども

為信の妻・阿保良姫の父、つまり為信の義父・大浦為則から
大浦城を譲り受けてといいますか
為信が大浦城主になった際に、、、、

婿養子に入って翌年に突然義父の大浦為則が亡くなり
そのような形で後を継いだ為信を
そもそも義父の下で働いていた家臣たちが受け入れていた訳ではない中で
「あそこの村に火をつけて来い」
と為信は家臣に申し付けた
家臣は驚き躊躇うもいつの時代も上司には逆らえないらしく
指定された村に火をつけて為信のもとへ報告すると
「あの村の家々や備品は古くなり危険なので
新しい村を作りそこへ人々を移したから
あの村はもう必要ではなくなり火をつけたのだ」
とかいう為信
よく考えてみればその村で人は見なかったと家臣は思い出す

という事があったらしく
つまり、
村を整備しつつも家臣の忠誠心を試したのですね

それから、
為信が攻略した津軽は当時南部氏の支配で、、、、

為信の本当の父と云われるのが南部氏族系の久慈氏
安倍氏系の母はこの久慈氏の後妻に入って為信を産むも
父の死後、家督を継いだ先妻の子供は後妻の母を虐待した
為信が14歳の時にこの久慈氏の家を出て
縁を頼って行き着いたのが大浦為則のところだった

つまり、
“目には目を 歯には歯を” 的なといいますか
母を苦しめたのが要するに南部氏なので
そんな南部氏の婦女子に母が受けた苦しみと同じ苦しみを返した
という感じなのかなと思いまして
なんといいますか、
だからと言って手放しで褒めるという事は難しいですが
為信の行動には何かしらの真が一本通っている気がします
そういったところで、
この弘前公園の一件に気付き
為信は津軽家だけではない弘前という町の発展を願ったのだな
と思い至り
いやだってほら、
鬼神社の一件を思い出してみて下さい

◎参考記事◎
『岩木山の神さまのから祝福』

そもそも、
岩木山の神さまの仕掛けというのは
人々の気持ちに寄り添った
人々がよりよい人生を歩めるようにという願いが込められているもの
その辺りをちゃんと判っていて
岩木山の神さまの思いを正しい形で遺そうとした
というのは、
安東氏の間違った使い方(=私欲を満たすためだけの悪用方法?)を見たから
(だから安東氏の遺したものは破壊した、と)
(更に安東氏は津軽一帯から退場している←間違った使い方をしたから?)
そういう為信の姿勢は、
後世に引き継がれたものからも見てとれまして
といいますのも、
現・弘前公園のある地はそもそも高岡といいまして
築城当初は高岡城と呼んでいたのです
けども、
為信の後を継いだ信枚は1627年に天海大僧正に相談の上
高岡 → 弘前 に改名
まぁ、
改名に至る理由は1627年は色々あり、、、、

元旦 → 大風が吹き荒れる
2月 → 大地震発生
6月 → 稲虫大発生
7月 → 碇ヶ関の古懸のお不動様の発汗騒ぎ
9月27日 → 天守閣に落雷し火災で焼失

コレだけ起きればそりゃ師匠に相談もしますよね(汗)
そういう事もあって付けられた弘前
その由来がこれまた驚きで

〜 “前” 〜
昔々の山伏が入山する前に、、、、
九字切りの唱文を唱えながら

※九字切り
『 “臨(りん)” “兵(ぴょう)” “闘(とう)” “者(しゃ)” “皆(かい)” “陳(ちん)”
“烈(れつ)” “在(ざい)” “前(ぜん)” 』
と唱えつつ音の順番に縦横交互に線を書いてゆく事
とはいえ、
コレも唱える事によってまず
“何かに負けない” という気持ちを強く持つ為の通過儀礼と思うといいますか
でもまず持って思う事は大事ですよね
更に
山伏の間では “前” が画数も九画だから九字切りを代表する文字と云われていたので

②空に “前” を書く
、、、、という魔除けをして入山していた事から
魔除け・厄払い・縁起直しの意味

〜 “弘” 〜
当ブログオーナー的には
左側の偏の “弓” と右側の旁の “ム” で “弓” と “矢” に見えたのですけども
紐解いてゆくと旁は “王” の意味
偏の “弓” は弓だがそもそも弓は古来より呪術や魔除けに使われていて
日本 → 弓矢神 = 八幡神
ヒンドゥー教 → インドラが虹の弓を使う(雷が矢?)
特に日本では
狩猟をして獲物を捉える事から弓 = 幸福とされてきた
つまり当ブログ的に、
王(=八)の弓で幸福にするみたいな隠れた意味があるのかも

最終的に町の名前にまで岩木山の神さまを配していたといいますか

弘前藩設立当初、
当主の方々は津軽の未来に八の思いも込めて
厄を払い、希望を託した
のでしょう

そんなこんなで、
今連投記事も長くなりましたけども
このあたりで御開きにしたいと思います。



読んでくださった方に感謝を込めて。


サンクス為信!
後ろ姿で真を語っているのでしょう←(笑)



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