ヘタに知識が先に入ってしまう事の危険性について語りたい(2)

ヘタに知識が先に入ってしまう事の危険性について語りたい…

…のは、正にこの10年の私の命題の様な気がするからです。



人それぞれに違う事象が発生する事がきっと前提にあるのがこの世だと思います。
たぶん昔はソレが普通だったのが、情報化の時代になり

例えば
憧れのあのスピの方がこう言うからこうだとか

例えば
恋愛論のセオリーにこう書いてあっからこうだとか

自分以外の何かに重点を置き過ぎる事で
自分に発生した問題に対して自分で考えなくなるのではなかろうか。


発生した問題がある現実の状態 から
自分の望む状態 までの間を
他から持ってきた型に嵌め込む感じで
それがぴったり合う人なら問題ないのだろうが
型が合わない場合、歪みが発生して
心に不一致を感じて苦しくなるのではないだろうか。

その間を自分で考えていく事が
“自分で自分に優しくする能力”
を培う事という気がする。

現在の心あるヒーラーの方は
本人に代わって“優しくする”作業をして下さっているのでないかと…
思いました。

例えば
世の中で持て囃される“二極化”
これもこのままで良いのではなく
両極を橋渡ししていく事
が、これからは大事なのではないだろうか?

でもまずは自分の事が出来ないと、ですね~。

私の場合は…
昔漫画を書いていた事もあり、
どんな状況でどう展開させるとより印象的かとか面白いかとか
そういうセオリーが一通り頭にあるので余計に…

自分の想像を遥かに超える破壊的に地味な物事の進展具合とかが現実で発生すると
全く理解出来ず…
1ミリも進んでない様な物事が許せず怒りを感じます。
(事態の状況分析)

あ、私は怒ってたんだ~
と認めると
(自分を認める事で自分に優しくする)

人によって進み具合が違う事も思い出せ
焦らなくて良いとも解り
(自分を認める事により他の人を認める事ができ、状況を見渡せる余裕も生まれる)

そして新たに自分の望む状態に焦点を定め直せば良い
(心にひっかかりなく望む方を見れる)

という訳ですねー。

※2017年10月11日追記※

悪い場合には悪いという対応もすれば良いのです

状況を考えて時と場合によった悪いという指摘をする対応という事です


問題の渦中で状況分析が出来るかどうか
…が鍵かな~?



読んで下さった方に感謝を込めて。


何でもない処で光写真を撮ろう(3)
生まれるのはいつもの滴型光でしたー



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